認知症（痴呆症）では被害妄想や夜間のせん妄などの「周辺症状」が、ほとんどのトラブルをおこす原因であることは前回まで述べました。周辺症状のある老人についてメディアや小説は介護者の悲劇的苦労、心理的葛藤の種として描いています。しかし不思議にうまく穏やかに看取った例を紹介していません。それはおそらくドラマに成りにくいからでしょう。実際には、在宅ケアの現場にかかわると、私が「純粋痴呆」と名付けた、周辺症状のない人たちが暮しておられるのにしばしば遭遇します。たとえば仮に佐久間さんと呼ぶ八十五歳の女性です。
　彼女は六年ほどまえある病院でアルツハイマー病と診断されたとき大腸がんも見つかり手術を受けました。ダンディな夫との間に娘が二人おり、妹は嫁ぎ、姉は未婚のまま両親と暮らしていました。夫が二年前になくなると間もなく彼女に大腸がんの再発が見つかり、すでに肝臓をはじめ全身へ転移していました。娘さんたちと相談の結果、延命措置は一切しないこととし、疼痛を緩和させることに全力をそそぐことにしたのです。
　アルツハイマー病は確実に進行していました。昨年夏、長谷川式痴呆スケールで測ったときは零点（０／３０）ですからどうみても重度の知力低下があります。日中はヘルパーが入り、夜は勤めから帰った姉娘が介護し、妹も毎週かならず１日、２日姉の代わりをしました。ほとんど車椅子の生活でしたが、ご本人はいつも微笑していました(アルツハイマーの人は他人には通常とくにアイソよくします)。 　診察前に容態をたずねます。
　「夜はよくお休みになれますか」
　「はい」
　「食事はおいしいですか」
　 「はい」
　「お通じはございますか」
　「はい」
　「どこか痛いところはございませんか」
　 すこし口ごもって「ありません」。
（実際はベッドから起き上がろうとしたりする時、顔をしかめたり、左前胸部を押さえ「いたい」といったりすることがある。)
　こちらの簡単な問いかけには答えられるのですが、自分ではなにか話したくとも口に出せません。言葉が出てこないのです。苛立ちの表情を浮かべるので、手を握ってあげ、「貴女のおっしゃることはよく判りますよ」と言ってあげると、「そうですか」とにっこりするのでした。
　このほぼ失語状態になった人が予想もつかないことを言います。
　十月、彼女の死の三ヶ月前、娘二人が揃っている時、「貴女たちこっちへいらっしゃい」とベッドから呼びます。娘たちが近寄ると、「貴女たちけっして喧嘩しちゃだめよ」と言ったのでした。
　しかしその後自発的発語はまったくと言ってよいほどなくなります。右手がほとんど効かなくなったのでがんの脳転移もあった可能性があります。体力の衰えが進んだので、姉は彼女と一緒に妹のアパートに移り、最終末期の看取りをしました。まったく痛みを訴えることなく、一本の点滴さえすることなく、静かに大晦日に息を引き取りました。眠るがごとき大往生とはこういう最後でしょう。