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健康生き生き

vol.32

「志」の萎えるとき

大井 玄

 医療を日本で成り立たせるためには、医療にたずさわる側に志が必要であると述べてきました。医療においての志とは、資源の十分ではない状況でも、皆に公平に質の高い医療を提供しようという社会的意思を医療従事者がそれぞれに体現して努力することです。したがって志が萎えてしまう社会的状況も存在します。日本では、それは第一に、医療を市場で購う商品であるように思う消費者主義的考えが一般になる場合です。第二に、医療事故がシステム的事故ではなく、個人の過失としてすべて処理される状況です。以上の状況は医療側にも明確に認識されていないようです。今回は第一の状況を医療側も気づいていないことを示す事例として、「患者さま」という言葉を彼らが使うことを挙げました。
(原文は東京大学医学部同窓会紙「鉄門だより」2006年10月号に掲載されました。

「患者さま」は戦略的エラー
最近「患者さま」という呼称を聞くようになった。広く病院長から現場の医師がそれを使っている。しかし「患者さま」と今後呼びつづけることは、私には医療の自壊をもたらす戦略的エラーであるように見える。すくなくとも医師はその可能性があることを自覚すべきだろう。「患者さま」という呼び方が現われた事情は不明だが、医療は一種のサービス行為だという認識に基づくことは想像に難くない。医者は横柄で傲慢だという批判に対するジェスチュアであったのかも知れない。しかし「患者さま」と言う「一般呼称」は、成立し得ないばかりか、論理、倫理、心理の三点で危険といえる。まず第一に論理的に、「患者さま」という概念あるいはカテゴリーは、存在し得ない。
「患者」(あるいは中立的に丁寧な呼称として患者さん)という言葉に含まれるのは「病気をもつ」という共通した性質(内包)である。そして病気という苦痛をもつ人々はすべてこのカテゴリーの範囲(外延)に含まれる。しかし患者「さま」と呼び始めた瞬間からその共通性格はぼやけてしまう。なぜなら「お客さま」という呼称から判るように、「さま」と付け加えるならば、そこには医療サービスの消費者という意味が中核的に生ずるからだ。「患者だって医療サービスの消費者ではないか」という疑問が当然出てくるだろう。しかし消費者と患者とは同列に置くことはできない。なぜなら「お客さま」はサービスを買えないなら「お客さま」ではなくなるが、「患者」はたとえ支払い能力がなくとも「患者」であることを止めることができないからだ。
市場経済での消費者は、サービスを買えなくとも次にまた買う機会があるという前提がある。つまりサービスを買えないことにより、重態になったり、死んだりすることは想定していない。しかし医療サービスは、消費者の購買欲をそそって利益を挙げるのではなく、生老病死という必然の事態に対する社会対応なのだ。しかも社会はそれに応える十分な資源をもたないから、医療資源は皆が大切に使うべき「公共財」である。したがって、医療サービスに従事する者は、常に不足しがちな医療資源をいかに公平に、効率よく、そしてそれを必要とするだれにもサービスが届くように努力する義務を負っている。そこが利益を目的とする「通常財」を扱うサービス業ともっとも異なる点だ。
第二に倫理的問題が「患者さま」と呼ぶことにより生ずる。それは公平という正義に係わる。たとえば途上国で医師一人看護師数人という陣容の診療所に数百人の患者が訪れる状況は現実に存在する。乏しい医療資源をどのように分配するのか。アリストテレスの「正義」の定義は、「同じ者には同じように対応し、同じでない者は同じでない程度に応じて同じでなく対応する」という。とすれば、極端な場合、医療資源の量に比べて圧倒的に多い患者に対し、医療者は生死与奪の権限をもつ「神」に似た役割を演じなければならない。つまり、手当をしなくとも治る者には手当は形式的にとどまる。手当をすれば命を救うことができる場合には手当をきちんとする必要が生ずる。そして手当をしても無効な者には、やはり手当は苦痛を和らげ、安心させることに限定されよう。
この時、どのくらい医療資源を用いるかによって、生命を救える患者の数は大きく変動する。資源利用の判断は医師にまかされる。医療サービスを買ってくれる意味での「患者さま」はここでは存在できない。それでも「患者さま」と呼ぶならば、それは偽善である。第三の理由は人間心理に関わるもの。これが将来、医療崩壊をもたらす可能性を秘める。それは「患者さま」と呼ばれることにより当然、生ずる心理状態である。表層的には自分がおちょくられているという当惑が生ずることが多い。しかし同時に生ずるのは、「自分は『お客さま』であり、『お客さま』(消費者)はサービスに不満ならば当然『消費者的』抗議をする権利がある」という深層心理的認識だろう。まことに無理からぬ心理的ダイナミズムと言える。
しかしこのダイナミズムが増大するならば、乏しい公共財を皆のために公平に効率よく用いる機能は消滅する。売場でかかりのものに「一番上の責任者を出せ」と怒鳴る「消費者」の姿を見るがよい。そうでなくとも、ちょっとした頭痛や耳鳴りがあるからMRIを撮れと患者が強く要求するのは日常事だろう。いやこの消費者的心理は医療現場ですでに顕かになりつつある。患者を消費者ととらえ直したサッチャー以後のイギリス医療界では、患者による暴力行為は信じがたいほど増えている。また「医師の士気の破滅的な崩壊」が起っている。患者から(罵詈雑言を含め)暴力を受けた医療スタッフは、2002年にはほとんど十万人に達したといわれる。それは消費者の抗議行動の一表現と考えられよう。日本においても看護師に対する暴力は(2002年、1205人に対する調査)、一年間に68%に達するという。
「患者さま」と呼ばれつづけるならば、このような消費者の「抗議行動」を正当化する心理は、増大する一方であろう。いかがでしょうか。なんでもないリップサービスのような「患者さま」という一般呼称が実は成り立たないことを。私たちはお金がないときは消費者つまり「お客さま」としてのサービスを受けることはできません。しかし病気であるときはお金がなくとも医療サービスを受けられるのです。日本の医療がアメリカやイギリスと比べて優れているのは、医療従事者の「志」による処が大きいと思います。



 

 

 





 
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