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社会で活躍する同窓生をCLOSE UP 輝くKG同窓生のインタビューとメッセージを掲載します。

KG PEOPLE
  019 山室紘一さん 作曲・編曲家、指揮者、プロデューサー 、など
 


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KG時代に奏でた人とのハーモニーが音楽への道を開拓。
山室紘一さん
(やまむろこういち)
【PROFILE】 1940年大阪・豊中市生まれ。1961年関西学院大学理学部(現理工学部)入学(第一期生)。作曲・編曲家、指揮者、プロデューサー、大阪芸術大学教授、(株)グッディール取締役プロデューサー、日本音楽著作権協会会員など、様々な肩書きをもつ。小坂明子『あなた』の編曲の他、多くの映画音楽、テーマ音楽、CM音楽の作編曲を手がけ、オーケストラの指揮なども務めるなどマルチに活躍。ボランティア活動として合唱団の指導を行うなど、本業以外にも精力的に音楽活動に励んでいる。
人生とはまさにオーケストラ! あらゆる人との出会い=ハーモニーを奏で続けてきた作・編曲家山室紘一さん。様々な楽曲を作・編曲し、かの有名な小坂明子さんの『あなた』を手がけたことで一躍脚光を浴び、以来、精力的に活動を続けていらっしゃいます。理学部1期生の異端児として、音楽の道に進んだきっかけから、夢を体現するための心がけなどを存分に語っていただきました。
子供の頃から育んできた音楽の感性。

「よく、『なんのために大学に行ったの?』と聞かれるんですけどね(笑。僕、理学部(現理工学部)の1期生なんですよ。化学と物理、それぞれ50人ずつしかいなかったから、すぐにメンツも覚えられるくらい。できたばかりの学部だったから、設備が足りなくて、社会学部に椅子を盗みに行ったりしたこともありましたね(笑)。今でも、大学時代の友人は一番親しい仲ですよ」
いたずらそうな目をして、当時を振り返る山室さん。 理学部の異端児はどのようにして、音楽家への道へ進んだのだろう?
「豊中で生まれ育ったんですが、後に有名な指揮者となった幼なじみがいたんです。幼い時から、その彼とレコードを持ち寄って家でいろいろな曲を聞いてたんです。親父が持っていたレコードを中心に、9割がクラシック、1割がジャズっぽい音楽。今ではジャズスタンダードとして有名なベニー・グッドマンの『Moonglow』もよく聞いていました。そういえば、ジャケットに『光の月』という邦題がついていて。幼心にずっと、どんな月なんだろう、と思っていたんですよね。でもよくよく調べると、発売されたのが戦時中だったからか、右から左に日本語を書いていたんだよね。だから本当は『月の光』だってことが、ずいぶん後でわかったんだけどね(笑)。それはさておき、その頃聞いていた和音が美しく調っている交響楽などを通して、自然と耳が鍛えられたんですよ。音楽の勉強を何もしてなかったのに、いろんなパート(楽器)が同時に動くという構造がわかるようになったら、曲は書けるようになるんです。不思議でしょ? 余談だけど、子供に音楽を教えるなら、3歳くらいからモーツァルトなどの美しい楽曲を聞かせると、間違いなく音感が鍛えられるますよ」

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作・編曲の才能が大学時代から開花!

中学時代はハーモニカクラブ。そこで初めての編曲を手がける。高校時代には混声合唱団に入り、ソルフェージュ(読譜力)とハーモニー感を身につける。
そして、大学時代はクラシックギター部に入部。
「まだ、その頃は同好会だったとき。僕はダブって入学したんで(3年浪人)、先に高校の同級生がそのクラブに入っていたんです。で、入学式の時に正門で彼が待ち構えていて(笑)。本当は軽音楽部とかでジャズとかしてみたかったんですけどね」
そんなひょんな縁から、才能が開花して、今の道にすすむきっかけに。
「クラシックギター部の人数が増えてきたので、合奏でもするか、という話になり、じゃあ、書いてくれと頼まれて、編曲を手がけたんです。それからですね、本格的に編曲を始めたのは。思い出深いのは、関西学院交響楽団の定期演奏会で同じ部の1年後輩の上手なソリストを共演させるための曲を手がけたこと。そのとき書いた曲は、スペインの作曲家ロドリーゴの『ある貴紳のための幻想曲』。当時、譜面を探しても見つからなかったので、レコードを聞いて、一から書き起こしましたよ。もちろん間違いがいっぱいあって。ファゴット奏者が『僕が吹ける音域にはない音がありますよ』とかね(笑)」
それ以来、オリジナル曲をたくさん生み出した学生時代。自然と音楽の道にのめりこみ・・・。
「大学3回生のとき、NHKの番組でフォークギターができる人を探している、と聞いて行ったところ、プロのギタリストとして出演することに。そのとき、ギターで初めてギャラをもらったんです。その後、次から次へと話が来て4回生の頃は学校サボって、ギターを弾きにスタジオへ通う日々。でも、ある日、このままだともっと若手の僕よりうまいギタリストが出てくる可能性があり、いつ喰われてしまうかわからない。なら、作編曲の道に進もうと決意したんです」
でも、なんとそう決意した当時は大学生のとき。
「4回生のときにCMの仕事をもらったんです。1本書いて、約50,000円くらいでしたね。当時の大卒初任給は28,000円くらい。稼げちゃうなーと思って。(笑)。確か最初はグリコのポッキーのCMだったんじゃないかな」
持ち前の人なつっこさと積極的な音楽への姿勢が功を奏して、就職活動をすることなく、自然な流れで音楽業界に進むことに。

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『あなた』が大ヒット。 一躍脚光を浴び、東京に。

社会に出て数年、地道ながらも精力的に大阪で音楽活動を続けていた30歳の頃、思わぬ転機が。
「ヤマハの心斎橋店に大学の同期が勤めていたんです。その彼から、コンテストの審査員をやってくれないか、とオファーが来まして。軽い気持ちで引き受けたんですが、出演バンドに歯に衣着せず指導していたら、評判がよくって、全国のコンテストにひっぱりだこ(笑)。その頃、中島みゆきや長渕剛などを輩出した『ポピュラー・ソング・コンテスト』のプロデュースをやってくれと頼まれたんです。そこで、ヤマハの大阪支店長と、大阪大会に向けていいオーディションテープを作ろうと意気込んでプロデュースした小坂明子さんの『あなた』が大ヒット。世界でも類を見ない530万枚をも売り上げたんです」
団塊ジュニア以上の世代なら、誰でも一度は口ずさんだことのある名曲の誕生は大阪から生まれたのだ。
「その後、ヤマハで専務理事を勤めていた作曲家・芥川也寸志さんに東京に来ないか、と誘われたんです。でも、関西でレギュラー番組も持っていたので断ったんですが、また誘われて。ついに上京を決意。もう今年で33年になります」 東京に来た頃は、楽しいことだけじゃなく苦労も待ち構えていた。
「東京に来てすぐ、ヤマハのコンテストの全国大会のプロデュースと本選の指揮をやるように言われたものの、右も左もわからない。東京のミュージシャンも知らないですしね。知らない指揮者が来ると、イジメもあるんですよ。演奏を始めるまでぐずぐずしたりね(笑)。認知されるまで2年かかりましたよ。また、南米のチリ国際音楽祭に行ったとき、英語で『ワン、トゥー、スリー、フォー』と棒をふっても、演奏してくれない。どうしてだろう?と思っていたら、地元のコンダクターがやってきて、『英語が通じないからスペイン語でやってくれ』と言われ、スペイン語で『ウノ、ドス、トレス、クワトロ』といったら、音が一斉にドーン!(笑)。今ではいい思い出ですよ」

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5年単位でビジョンを作る!
それが夢を実現する原動力に。


一般の大学を卒業後、芸術へと進む道は厳しいもの。山室さんのようにめざましい活躍を夢見るOB&OGへアドバイスをいただいた。
「就職とは自分でその世界にうまくもぐっていくこと。僕の場合、常に5年後の目標をたててきました。5年単位で手の届きそうなビジョンを作って、クリアしてきた。達成できれば、また次のビジョンを持つようにして。その繰り返しで僕はこの年までやってきました。たとえば、ブラームスが60歳で初めてシンフォニーを書いたから、それを目指してみたり、ね」
人との縁とご自身の努力が、作・編曲家としての山室さんを築きあげてきた。 ただ、音楽業界は狭き門。それをくぐりぬけるには?
「音楽に関する仕事はたくさんあります。プロデューサー、ディレクター、音楽ライター、スタジオミュージシャンなどさまざま。自分が何をしたいか、をじっくり考えて、そこに入り込む努力をすること。ただやはり、今は音楽業界は9割くらい東京に仕事が集中しています。でも、そんな状況を変えるべく、6年くらい前から大阪芸術大学で教鞭をとりつつ、大阪でも若い優秀な人材が音楽の仕事をしていけるようにインフラを構築していこうと思っています。僕が生まれ育った地域還元の意味を込めてね」
そう語る山室さんの瞳の奥には、未知の可能性を秘めた若者たちへの架け橋的役割を担う新たなビジョンがキラキラと輝いていた。
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