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<囲碁 サークル>

囲 碁 と 私

由利 晃二(32法)


大学時代の友人が、同窓会などで私を 誰かに紹介するとき、冗談半分に 囲碁麻雀部
の〜君ですと言われるほど、学業をおろそかにして囲碁と麻雀には、熱をあげていた。

麻雀はさておき、囲碁との出会いは、親父が、所謂 田舎初段で、休日の都
度、誰かが我が家に上がりこんで、親父と碁盤を囲んでいて、そのそばで、囲
碁の礼儀と教えられたのかキチンと正座して、対局中ずっと観戦していた記憶
があり、対局者の顔を思い出すと、小学校2年まで住んでいた、豊岡の伯父の
顔が浮かんでくるので、多分小学校に上がる前後の年頃だったのだろう。父の
勤務の都合で、転勤が激しく、それに連れて引っ越す為に、私は、小、中,高
いずれも入学校と卒業校は異なる。

自分が囲碁を打ち始めたのが何時の頃か正確な記憶はないが、多分親父の対
局相手の来なかった暇な時に井目で始めたと思う、必ず 碁を教えて と言わ
ないと打ってくれなかった。

高校生から大学初期の頃、阪急淡路駅前の友人宅が我々の休日の溜まり場で、
囲碁や麻雀をして遊んだものだが、高校時代、囲碁については私に勝てる仲間
は一人もいなかった。 大学に入って、何かクラブ活動と思った時、囲碁クラ
ブの部員募集のポスターが目に入り、早速入部した。当時の囲碁部の活動拠点
は西宮北口近くの碁会所。囲碁部長は、津山寿一郎氏、入部のテスト対局で、
井目を置かされ負けて8級と査定されてガックリ、大学の囲碁部とは、こんな
にレベルが違うのかと認識した。然し、この時を起点として、囲碁と私の付合
いが、永く続くことになった。

部員が20名位居ただろうか、昼過ぎから遅くまで、ガヤガヤ煩く、プカブカ
煙草を吸いまくる、 一般客にとっては、はた迷惑な、部活だったと見えて、
その内退去を要請され、なぜか若輩の私が、次の部活場所を探す事になり、甲
東園の駅近くに友人の彼女の邸宅の一室を借り受けて、当座の部活拠点とした。
部員以外にご近所に住まわれて、体調不良で休場中だった、将棋の神田六段や
阪大OBだった 秋沢さんなども来場され一緒に囲碁も将棋も楽しんだ。

この辺りから、囲碁部員としての活動が、囲碁のみならず裏方の仕事も私に集
まるようになり、幾ばくかして、大学側から、大学構内の西端の2階建ての建
物の2階を将棋部と合併して使用することになり、棋道部として発足し、部長
に就く事となった。その後 大学の構内右奥にいくつかの部室が新築され、茶
道部と隣り合わせに、再び囲碁部として、漸く 文化総部の一員として安定的
且つ本格的な活動拠点を得た。文化総部といえば、何かの催しで、宝塚大劇場
で会があり文総各部の部長が、大舞台に整列し、会場の人達に各部の紹介をさ
れた事があった。舞台から見る観客席は上まで高く、自分が反り繰り返るような感じであった。

当時の関学囲碁部の大学リーグ戦での活躍ぶりは、部の発足当時と変わらず関
西では、京大、関学 関東は、東大、中央のそれぞれビッグ2の構造を受け継
いでいた。

そんな中で、2年には部内初段、3年では、対局譜を提出して、日本棋院から、
三段の免状を頂いた(因みに免状に記された本因坊は高川秀格氏)

当時の大学囲碁の活動は、関東、関西 両リーグのみで、未だ全国規模の大
会などは無く、両リーグの覇者が、戦ったが我が関学は阪本主将以下健闘を重
ねたがついに全国優勝はならなかった。当時関西学生囲碁連盟は、京大囲碁部
長の高坂正尭君(後年国際法学者京大教授)が委員長、私は副委員長として、
リーグ戦の前後に二人で試合日程、会場の設定や、記事を記載する後援の毎日
新聞に挨拶に行くのが恒例であった。関西リーグ戦の会場は、出入り橋の関西
棋院、阪急園田の細川道場などもあったが殆どが、日本棋院の京都支部(現在
の藤田塾?)支部長であった藤田悟郎六段(林海峰名誉天元の師匠)が夕方に
なると我々の会場に顔を出してメンバーをピックアップし麻雀は徹夜でなけり
やと翌日昼過ぎまで付き合わされた。

大学を卒業して、数年間は、未だ土曜半
ドンの時代で、折りしも出来た梅田のOS囲碁センターに仕事終わり次第に、
弓場、米谷、前川の諸君と落ち合い夕方まで囲碁を楽しみ、そのあとは、当時
住んでいた、東淀川の公団の単身者住宅の我が家で翌日の夕方まで、麻雀を楽
しんだ。OS囲碁センターでの思い出は、例の如く対局していた我々のそばで
観ていた、安永一氏が俺と打とうと指名してくれて、感激しながら5子局で打
って頂いた。その後、仕事の関係もあり、集まる機会は徐序になくなって行った。

我々の集まりが自然消滅したあと、結婚し、東京に転勤しと、仕事が忙しく
在職中は、たまに業界の大会に出る以外殆ど碁を打つ機会もなく、たまに実家
に帰っても親父と白黒が逆転してからは、あまり打ちたがらなかった。

ただ現役の頃、何となく囲碁を打てると云う話が伝わり、通常会う事もない
取引先のえらい人から請われて対局する機会もあり、取引の親密さに貢献した
こともしばしばあった。第一線を退いた平成14年頃になると、毎日を如何に
過ごすかとなり、囲碁との関わりを求めて、アチコチと顔をだした。それまで
全く関わりを持たなかった地域の活動にも出向き、囲碁との接点をもとめ、住
宅地の囲碁会、地域センターの会、碁会所も青葉台、町田、と出入りを重ねた。

平成19年故あって横浜の家を娘夫婦にすまわせて、十数年以前に住んでい
た埼玉県幸手市の現在地に転居した。以前住んでいた頃と違い、この度は完全
隠居生活であり、否応なしに地元でのお付合いが始まると共に囲碁との出会いが出来た。

驚いたのは、幸手は、日光街道の有数の宿場町として栄えた時代があったの
は知っていたが、なんと、現在のタイトルマッチになる以前、師匠から最強の
弟子へ世襲制で受け継がれた21代の本因坊の中で、八世 伯元 九世 察元
十世 烈元 の三人の本因坊を輩出し、伯元の墓など我家から100m程の場
所にある。早速御参りをした。そんな土地柄で、地域における囲碁も盛んで、
あちこちの公民館、自治会館、福祉会館等住民の集まる機会のある場所はおろ
か神社稲荷と云った場所も活動に提供され、あちらこちらと顔を出しているう
ちに地元の囲碁会の会長におさまる羽目となった。

もう一面では、市の方針として、市内の全小学校に囲碁を課外授業に取り入
れており日本棋院からも色々と普及発展の為の尽力を頂き、13路盤の寄贈、
囲碁指導員の派遣などを受けた経緯もあり、教育委員会の要請で、各小学校に
出向いて、囲碁の手ほどきから始めている。4年、5年、6年生が、活動の有資
格者で賑やかに楽しんでいるが毎年11月の文化祭の行事の一環として、小、
中学生を対象にした、子供囲碁大会も開催され、自分たちの教え子の成績=教
え方の評価にも繋がる結果になりかねないので、指導員の皆さんも真剣である。

少子化の流れか、担当している小学校はいずれも全校生徒が百数十人と少なく我々の子
供の頃1クラス50人の何組×6年とは全く様相を異にし、講義をシーンと聴くという雰
囲気が全くないのも現代の世相の反映かな?

古稀を過ぎ、老いを避けつつも、麻雀のメンバーが集まらなくなり、週一のゴルフが、
十一になり、何とか月一が精一杯の中、囲碁に関わる日々は確実に増えており、外出をし
ない日は、自分で買った碁盤、親父の遺品、義父の遺品と三面を、3つの部屋に常備し、
その時の気分で、囲碁雑誌や、教本を見ながら、棋譜を並べて時間を過ごすのが日課とな
ったが、今にして残念なのは、若い頃の自分の棋譜が、全く残っておらず、辛うじて前川
氏の遺品の中に2局分残されていて頂戴できたのが大変な宝物である。

思えば、読み書きが出来始めた幼い頃から、80に手が届きそうな永い期間、常に我が
身の傍らに 囲碁 は 離れなかった。


秋の囲碁合宿で 於湯河原 2011.10.7ランバスホールで、2011年度の囲碁指導の賞の授与(阪上さんから)2012.2.2


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