4月例会は国立新美術館で開催中の「ミュシャ展」鑑賞でした。チケット売り場は長蛇の列。それは、同時期に開催中の「草間彌生展」の観客とダブッていたからです。推測すると、草間6.5、ミュシャ3.5位の印象でした。
さて、「ミュシャ展」ですが、今回の最大の見どころは、フランスでの名声を捨て50歳で故郷のチェコに戻ったミュシャが、晩年の17年間を捧げた一大プロジェクト「スラヴ叙事詩」です。凡そ縦6m,横8mに及ぶ圧倒的スケールで描かれた20作品は、スラヴ民族の苦難と栄光の歴史を映し出す壮大なスペクタクルであり、完成から80年以上たった今でもミュシャ史上最高の傑作と言えます。

今回の展示では5作品に限り撮影可能(フラッシュは禁止)ということでした。

尚、ここでは、主催者HPから、「スラヴ叙事詩」の部分を抽出しておきますので、会場に行けない方もご高覧いただければ有難いです。

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  • 1

    原故郷のスラヴ民族
    スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。
    1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

    2

    ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭
    バルト海沿岸ルヤーナ島(現在のリューゲン)アルコナでは、大地の収穫の神スヴァントヴィートを祀る大きな祝祭が開催されていた。だが、1168年にデンマーク王ヴァルデマールがこの地域を領土とした際に終止符が打たれた。
    1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

 


  • 3

    スラヴ式典礼の導入
    ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。先王は二人の僧侶に聖書をスラヴ語に翻訳させ、それによりゲルマン人司教やローマ教皇を憤慨させていた。スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。
    1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

    4

    ブルガリア皇帝シメオン1世
    ブルガリアおよびギリシャの皇帝シメオン1世(在位888-927)はスラヴ文学の創始者とされている。高名な学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させた。
    1923年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm

 


  • 5

    ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世
    有能な支配者であり、当時ヨーロッパで最も裕福であったオタカル2世が催した、姪とハンガリー王子ベーラの婚礼の様子が描かれている。スラヴの連合を理念に掲げ、ロシアやポーランド、セルビアなどスラヴ民族の支配者や王侯貴族を招いた。
    1924年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm

    6

    東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン
    ビザンティン帝国衰退期にスラヴ民族の領土を南方へ拡げた軍事指導者ドゥシャンは、自らを東ローマ皇帝と宣言し、スコピエの聖マルコ聖堂で即位した。この時期、神聖ローマ皇帝はカレル4世であったため、東西ローマ帝国はスラヴ人によって治められた。
    1923年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm

 


  • 7

    クロムニェジージュのヤン・ミリーチ
    14世紀の重要な聖職者ミリーチは、ヤン・フスの改革の先駆者であった。街頭で説教し、贖宥状を批判する一方、プラハの売春婦たちに生き方を悔い改めるよう説いた。彼は売春宿を取り壊し「新エルサレム」という名の修道院を設立した。
    1916年 テンペラ、油彩/カンヴァス 620×405cm

    8

    グルンヴァルトの戦いの後
    15世紀初頭、ドイツ騎士団は北方スラヴ諸国に侵攻した。ポーランド王ヴラジスラフ王とボヘミア王ヴァーツラフ4世の連合軍は、1410年、グルンヴァルトの戦いでドイツ軍に勝利した。
    1924年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm

 


  • 9

    ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師
    15世紀にボヘミアとモラヴィアからはじまった宗教改革の偉大な指導者ヤン・フスによる説教の様子が描かれている。弟子のみならず、国王ヴァーツラフ4世の妻、王妃ゾフィーさえもプロテスタント運動の先駆者フスの言葉に耳を傾けた。
    1916年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

    10

    クジーシュキでの集会
    ヤン・フスが火刑に処せられた後、チェコ改革派の指導者となったピルゼンの改革派司祭ヴァーツラフ・コランダがクジーシュキで説教をする場面(1419年9月30日)。信仰を守るためには武器も必要と説き、フス派改革運動からフス戦争へと移行していった。
    1916年 テンペラ、油彩/カンヴァス 620×405cm

 


  • 11

    ヴィートコフ山の戦いの後
    フス戦争がはじまると、皇帝ジグムントはプラハを占領。ターボル派がプラハ市民を助けるために駆け付けた。彼らはヴィートコフ山を要塞化し、攻撃したことにより、皇帝率いる十字軍を撤退させた(1420年)。
    1923年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm 

    12

    ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー
    フス戦争の時代、ヴォドニャヌイは熾烈な戦いの場となった。怒りに満ち、悲しみにくれる住民たちは、司祭にして偉大な哲学者であるヘルチツキーに救いを求めた。司祭は聖書を手に、復讐しないよう彼らを諭した(1433年)。
    1918年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm

 


  • 13

    フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー
    1430年、ローマはボヘミアへの十字軍派遣をやめ、フス派の要求を認めた。1458年にボヘミアの貴族がポジェブラディのイジーを国王に選出したことは分裂した信徒たちを結束させる好機となった。
    1923年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm

    14

    ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛
    1566年、スレイマン大帝が率いるトルコ軍の侵攻を、クロアチア総督ズリンスキーはシゲットヴァールで攻防した。要塞がトルコ軍に攻囲されたとき、チェコ人であった総督の妻が火薬塔に火を放ったことにより火が荒れ狂う様子が描かれている。
    1914年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

 


  • 15

    イヴァンチツェの兄弟団学校
    画家の故郷モラヴィア地方イヴァンチツェでは、領主ジェロティーン公により最初のモラヴィア兄弟団が設立され、クラリツェ聖書が翻訳、印刷された。少年が聖書を盲人の老父に読み聞かせる様子が描かれている。
    1914年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

    16

    ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々
    1620年に改革派が敗北を喫したことにより、プロテスタント教徒たちは亡命を余儀なくされた。その中にはボヘミア兄弟団教会の指導者コメンスキーもいた。オランダのナールデンでの最期の日々が描かれている(1670年)。
    1918年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×620cm

 


  • 17

    聖アトス山
    ギリシャのアトス山は正教会の最も神聖な場所である。スラヴ民族をビザンティンの教育や文化へとつないだ正教会への賛辞をこめた作品。
    1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm

    18

    スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い
    1894年にスラヴ文化の再興を求めるオムラジナと呼ばれる民族主義的な団体が結成された。20世紀初頭に団体は弾圧を受け、提唱者たちは公職から締め出された。
    1926年(未完成) テンペラ、油彩/カンヴァス 390×590cm

 


  • 19

    ロシアの農奴制廃止
    ヨーロッパのいかなる地域よりはるかに遅れて、ロシアの農奴制は1861年にようやく廃止された。モスクワのクレムリン宮殿前の聖ワシリー大聖堂の影で皇帝アレクサンドル2世による勅令が読み上げられ、人々が「自由」を獲得した場面が描かれている。
    1914年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm

    20

    スラヴ民族の賛歌
    スラヴ民族の勝利のヴィジョン。画面右下の青はスラヴ史の神話の時代、左上の赤はフス戦争、中央の黒い人物像はスラヴ民族の敵、黄色い人物たちはスラヴ民族に自由と平和と団結をもたらす人々。
    1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 480×405cm