6月の例会は6/16、国立新美術館で開催中の「ルノアール展」の鑑賞でした。12人が参加でした。会期に余裕があったため意外に空いていて、ゆっくりと見ることが出来ました。(5月の「若冲展」は余りのフィーバーのため、待ち時間4時間と聞いてグループでの観賞は中止いたしました(>_<)。)
下記に主催者のHPを引用させていただきます。

1章 印象派へ向かって

本展は、ルノワールの印象派への歩みを示す2点の輝かしい作品で幕を開けます。磁器の絵付け職人を経て、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)や私設のアトリエで絵画を学んだ若きルノワールは、モネやシスレーとの出会いを通して、新しい絵画を志すようになりました。《猫と少年》には、歴史や神話といった主題を捨て、日常を率直に描写した先輩画家クールベやマネの影響がうかがわれます。そして5年後に制作された《陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)》には、戸外の光、大胆な筆触、色彩を帯びた影といった印象派の美学が凝縮されています。

《陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)》
1876年頃 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt /distributed by AMF

2章 「私は人物画家だ」: 肖像画の制作

早い時期から「人物画家」であると自負していたルノワール。初期にはパトロンや親しい仲間の肖像を描き、何より女性の肖像画に長けていました。モデルは、モンマルトル界隈の若い労働者から、社交界の有名人までさまざま。こうした肖像画は、小説家マルセル・プルーストによる美しい賛辞を生みました。「たちまち世界は(世界は一度だけではなく、独創的な芸術家が現れた回数だけ創造されたのだ)、私たちの目に、古い世界とはまるで違って見える。女たちが街の中を通る、以前の女たちとは違う、つまりそれはルノワールの女たちというわけなのだ」(『失われた時を求めて』より)。

《読書する少女》
1874-1876年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski /distributed by AMF

3章 「風景画家の手技(メチエ)」

その画業を通じてルノワールは風景画にも力を注ぎ、特に1870年代には、油彩作品の4分の1を風景が占めています。また、1880年代に外国を旅したことによって、新しい場所が作品に現れるようになります。室内で完成されるとしても、彼にとって風景画とは戸外のものでした。「アトリエの和らいだ光の中では想像すらできない色調を用いるようになる。風景画家の手技(メチエ)とは何というものだろう! […]天気が変わってしまうから、10枚のうち完成できるのは1枚だけだ」。こうした困難にもかかわらず、画家は「自然との取っ組み合い」を断念することはありませんでした。

《草原の坂道》
1875年頃 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt /distributed by AMF

4章 “現代生活”を描く

1863年の有名な評論「現代生活の画家」のなかで詩人ボードレールは、画家が描くべきは過去ではなく現在であると主張し、「移ろいやすく、儚く、ささやかなもの」を捉える素早い描写を称賛しました。ルノワールが描いた現代は、ダンスホールや酒場、カフェ、郊外の舟遊びといった、19世紀のパリ生活に特徴的なものばかり。小説家のゾラは、そんなルノワールの作品を「現代的な側面の幸福な探求」と形容しました。
この章は、モンマルトルの庭や、パリ郊外のセーヌ河畔での余暇を描いた作品からはじまります。そして、画家が生きた時代への関心を最もよく示すのが、他ならぬ《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》。140年前に描かれたこの絵は、ダンスホールで陽気に踊る市井の人々の喜びを今に伝えてくれます。本作の理解を深めるために、同様のモティーフを描いた同時代の作品に加え、画家の次男で映画監督のジャン・ルノワールによる映画も紹介します。最後に、画家が舞踏会というテーマに長く魅了された証である、2点のダンスの大作で本章を締めくくりましょう。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》
1876年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

5章 「絵の労働者」: ルノワールのデッサン

印象派の画家たちは、素早いタッチで、見たものを直接描くという美学を絵画に持ち込むことで、伝統的な方法やヒエラルキーを覆しました。その一方でルノワールは、印象を描きとめ、構成を練り、新しいアイデアを試すためのデッサンにも熱心に取り組んでいます。また若い頃、磁器の絵付け職人として腕を磨いた彼は、画家になっても地道な修練をおろそかにしませんでした。ある日、文学者たちとの昼食の席で、彼はこんな風に語ったそうです。「結局のところ、私は自分の手で働いているよ。だから労働者さ。絵の労働者だね」。

6章 子どもたち

ルノワールが子どもを描いた作品には、《ジュリー・マネ》のように注文に応えたものと、3人の息子ピエール、ジャン、クロードをモデルに自発的に描いた作品という、2つの種類があります。子どもたちは、幾度となく彼らを描き出す父の絵筆のもとで成長していきました。のちにジャンは、家庭を持ったことがルノワールの制作にとってどれほど重要であったかを強調しています。「夢中になって息子をデッサンしながらも、自分自身に対して忠実でありたいと願っていたから、この生まれたばかりの肉体のビロードのような感触を表現するという単に外面的な関心を超えて、自分の内的世界を再構築しはじめていたのだ」。

《ジュリー・マネ》あるいは《猫を抱く子ども》
1887年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

7章 「花の絵のように美しい」

かつてルノワールは、ドラクロワによる戦闘図を目にして「花の絵のように美しい」と称えました。彼にとって花の絵は美の基準だったのです。同時に、それは絵画市場の需要に応えるための制作であり、友人たちへの贈り物であり、実験の場でもありました。「花を描くと頭が休まります。モデルと向き合うときの精神の緊張とは別物なのです。花を描くとき、私は1枚のカンヴァスを失うことを恐れずに、さまざまな色調を置き、色を大胆に試みます。こうした試行錯誤から得られた経験を、他の絵に応用するのです」とルノワールは打ち明けています。

8章 《ピアノを弾く少女たち》の周辺

少年時代、聖歌隊に入っていたルノワールは音楽を愛し、音楽家や音楽評論家とも交流しました。《ピアノを弾く少女たち》は、印象派の画家による作品の中で、当時の現代美術館ともいうべきリュクサンブール美術館が1892年に購入した、最初の絵画です。ルノワールの友人である詩人マラルメと批評家ロジェ・マルクスの尽力により実現しました。制作依頼を受けて描かれた6点のヴァージョンのうち、美術局長によって選ばれ、国家が購入したのが、現在オルセー美術館が所蔵する本展の出品作です。中産階級の娘を描いたこの時期の作品には、理想化された構図と、調和のとれた色彩が特徴的です。

《ピアノを弾く少女たち》
1892年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

9章 身近な人たちの絵と肖像画

ルノワールは生涯を通じて、注文に応え、身の周りからモデルを見つけ出す、熱心な肖像画家でした。後年に描かれた人物画や肖像画の特徴は、ゆったりとした形と入念な彩色。画商ヴォラールは、画家が家事手伝いの娘に唯一求めたのは、「光をしっかりと吸い込む肌」だったと回想しています。妻アリーヌが次男ジャンを身ごもったときに呼び寄せた遠縁の娘ガブリエルは、その後20年間、晩年の画家のよきモデルとなって200点近くの作品に登場しています。触覚的で愛撫するような絵筆は、親密な感情とともに、肌の色合いや衣服の質感を描き出す画家の喜びを伝えています。

《薔薇を持つガブリエル》
1911年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt /distributed by AMF

10章 裸婦、「芸術に不可欠な形式のひとつ」

ルノワールは、画業のはじめの1860年代には裸婦に取り組んでいましたが、続く20年間はあまり描かず、再びこの「芸術に不可欠な形式」に戻ってきたのは、1890年代のことです。彼はラファエロやティツィアーノ、ルーベンスといった過去の巨匠たちと競いながら、神話ではなく地上を舞台に裸婦像を描きました。その背景となったのは、画家が1907年に広大な土地を購入して住みはじめた南フランスのカーニュ。このアルカディアの地で画家は、悪化するリウマチ、第1次世界大戦に従軍した息子たちの負傷、妻アリーヌの死に直面しながら、「最善を尽くしきるまでは死ぬわけにいかない」と、裸婦の大作に挑み続けました。

《浴女たち》
1918-1919年 油彩/カンヴァス
オルセー美術館
© RMN-Grand Palais (musée d’Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed
写真は美術館敷地内でのスナップです。(ここでは10名です)