三日月会2月度例会は、昨年のフェスタでパネラーを務めていただいた同窓で東京藝術大学特任教授の井谷善恵様にご講演をお願いしました。井谷様は、輸出工芸史、特にティーカップの研究がご専門です。当時の貴重な写真を見せていただきながら57名の参加者の皆様と明治のころの輸出業に携わった人々の奮闘ぶりを伺いました。ありがとうございました。

 日本で初めてコーヒー豆の販売をしたのは元町センター街の放香堂です。最初の喫茶店は上野広小路近くの可否茶館で1889年に開業しました。鄭成功の末裔の鄭永慶が初めたのですが、時代が早すぎたのかうまくいきませんでした。1911年には銀座にカフェライオンがオープンしました。

 東洋の磁器は、欧米人にとっては憧れで、アンドレア・マルケーニャのイエスの誕生をえがいた絵画では、東方の3賢者が持参した没薬・沈香・黄金のうち、黄金のはいっているのは中国の染付で最高級の磁器でした。今でも人気でサザビースの2014年のオークションではなんと鶏を描いた盃に36億円の値段がつきました。マイセンは1917年に磁器製造を始め、日本では豊臣秀吉は朝鮮から陶工を連れかえり有田で磁器の製造を始めました。

 江戸時代には出島や伊万里港から陶磁器は輸出されていましたが、公式に輸出を始めたのは明治維新以来で、外貨獲得のために日本の美術工芸品を輸出しました。パリ万博では九谷焼きの金襴手が人気を呼び、以後横浜・神戸から送りだしました。九谷は横浜に店をだし、九谷風、薩摩、大阪薩摩、京薩摩の薩摩スタイルを輸出し、外国の商社も名古屋でティーカップや花瓶を作らせていました。ビーズで立体的にみせる工夫もしていました。瀬戸の名工はすでにコーヒーを知っていましたがデザインは手さぐりでした。産地はいろいろありましたが、なかでも伸びたのは瀬戸です。横浜と神戸の中間にあるという立地も好条件でした。歴史のある有田の売れ行きが落ちたのは横浜・神戸に遠いところからでした。香蘭社はいまも健在です。

 中でももっとも伸びたのは森村組です。1876年に創立した当時は商社でしたが、その後日本陶器となりノリタケカンパニーになりました。森村組を創業した森村市左衛門は、福沢諭吉にこれからのビジネスは海外と勧められ、ニューヨークに弟を派遣しました。大倉陶園、日本碍子、東洋陶器、伊奈製陶など先見の明を持ち、ニューヨークに進出した人たちが集まり、5番街日本クラブを作りました。初代の会長は高峰譲吉です。彼らはロウアーマンハッタンに店を出し事業を発展させていきました。ノリタケは手のこんだ画帳(デザイン画)を見せて陶工に作らせ海外に売りました。大阪、京都、名古屋の絵付け工場に注文していたのを名古屋に工場を集約し、親方たちを集めて大きな工場をつくりました。

 どんなデザインがアメリカ人に好まれるのかのマーケティングもし、ヨーロッパ風のものを作っていました。陶磁器のデザインの基本は2つ。花瓶などはギリシャローマ、食器は銀器をもとにしました。当時は銀本位制で銀器が一番上等でした。当時のセットの砂糖入れが大きいのには理由があり、サトウキビはヨーロッパでは作れないため砂糖が高価だったからです。塩は岩塩なのでこれも貴重でした。

 当時ヨーロッパでもっとも人気があったデザインはイギリスのウースターのフライングスワンです。ウースターは水がゆたかで森がありました。水も木材も陶器づくりの基本です。ノリタケはこのデザインの白鳥を盛り上げて作っていました。

 アメリカで日本製の食器がなぜ売れたのでしょうか。彼らにとってクリスマスはみんなで一緒に食事をする特別な日でした。そのときの食器は幸せな思い出につながるので食器を大事にしました。その文化のなかで日本製の食器は売れていったのです。

 アメリカでも陶磁器も生産されていて、特にオハイオは産地。それでも日本製が進出したのには理由がありました。アメリカ人は移民の集まりなので、愛国心を高揚させるものが必要でした。そのためにワシの模様がありましたが家庭で使う食器にはそぐわない。そこで日本製のヨーロッパ風のものが受け入れられるようになったのです。ヨーロッパはプライドがあるのでアメリカの要望は受け付けませんが、日本人は要望に応える。値段は安く対応も誠実で日本製はベストでした。

 大正2年に日本で初めてディナーセットができ200セットが出荷されました。伊万里のころにもあったのですが、献上鍋島は徳川家に献上するものでした。大正期から海外に輸出して成算がとれるようになったのです。花柄のほか風景がうけ、電話帳のような厚さの通販にのせてもらえるようになりどんどん売れるようになりアメリカに浸透していきました。いちばんうけた柄は楚々とした南部美人です。

 レーガン大統領の時代以後、食器産業は下降していきます。1967年アメリカでの日本製食器は75パーセントのシェアで、バッシングがおこるほどでした。しかしプラスチックができ、1970年代にはピザのデリバリー、ケンタッキーフライドチキン、マクドナルトのハンバーガーが販売され、食器はいらなくなり、食器産業がダウンしていきました。世界的にも食器産業はおちていきます。

 かつて日本がアメリカに輸出した食器はどうなったのでしょう。それを幸せの思い出として美術品として大事にされています。日系3世の女性は造園業をして得たお金でオールドノリタケを集め寝室にかざる。多くのコレクターがいるのです。

 明治時代からこれからのビジネスは海外と見極めた先人の努力で、日本製の食器がアメリカでどんなに愛されてきたかを初めて知りました。食生活の変化という時代の流れはあっても思い出と共にこれからも愛されていくでしょう。

【以下ご案内文】

 三日月会2月度例会は、昨年7月のフェスタ座談会で登壇されました井谷善恵氏に下記内容でご講演を賜る事になりました。

 井谷氏は、関西学院大学大学院修了後、英国の大学にて博士号を取得し、帰国後いくつかの大学にて近代における輸出陶磁器を中心とした美術工芸史、特に近代輸出工芸史、および異文化交流史に関する教鞭をとり、東京芸術大学では専門領域のほか、グローバルサポートセンターにて、留学生対応と日本人学生のための留学対応にも携わり、正に多様性を求められる様々な分野でご活躍しておられます。

 異文化に出会った時に人はどんな対応をするのだろう? 旅する、住む、食べる、着る、テーマは様々ですが、人生を大いに楽しみつつ、異文化と国際交流について語って頂けます。

 是非とも多数の皆様のご出席を賜わりますようご案内申し上げます。

                    記

日  時 :2019220日(水曜日)133014451300開場】

場  所 :関西学院大学東京丸の内キャンパス ランバスホール

      千代田区丸の内1-7-12 サピアタワー10階

      サピアタワーオフィス3階受付前に「三日月会受付」(13:0013:25)を設置

会  費 :1000円 (小ペットボトルのお茶を用意しますが、軽食の提供はございません。)

講  師 :井谷 善恵(いたに よしえ)氏 東京藝術大学特任教授

1979年 関西学院大学文学部卒業、1998年同大学大学院文学研究科修士(美学)

2000年 SOASロンドン大学大学院にて修士

2006年 オックスフォード大学大学院にて博士号を取得

2007年~2015年 帰国後 東京芸術大学、金沢大学等いくつかの大学にて非常勤で勤務。

2015年~ 東京藝術大学グローバルサポートセンター 特任教授 現在に至る

関連の著書:『オールドノリタケの美』東洋出版()等、その他著書・翻訳書を含めて多数

タイトル:『コーヒーを知らずにコーヒーカップを作った明治の職人たち―日本美術と文化におけるグローバル化について』

お申し込みは、2019214日(木)締切りました             

尚、同窓会東京支部のkg_tokyo_soumu@yahoo.co.jpへのメール返信では、申込み受付出来ませんので、くれぐれもお間違えの無いようにお願い申し上げます。

*お問合わせ先:東京支部  TEL 03-5224-6226

【次回予告】三日月会3月度例会は327日(水)に開催する予定でございます。

以上